フランキンセンス(乳香)は、単なる「良い香りのするもの」ではありませんでした。古代の世界において、それは国家の財政を揺るがし、時の権力者が権威を誇示するために湯水のように使う「究極の贅沢品」でもあったのです。今回は、フランキンセンスにまつわる、少し意外な「お金」と「経済」の物語をご紹介します。
ローマ帝国を悩ませた「香りの貿易赤字」
紀元1世紀、古代ローマの博物学者・大プリニウスは、その著書『博物誌』の中で、あるひとつの経済問題に強い懸念を示していました。それは、アラビアやインド、中国からもたらされる香料や絹といった贅沢品のために、ローマ帝国から毎年1億セステルティウスという莫大な金銀貨が海の向こうへ流出しているという事実です。現代で言うところの「貿易赤字」への警鐘を、今から2000年近く前の知識人がすでに書き記していたというのは、なんとも興味深い話です。
当時、最上級の乳香1ポンド(約327グラム)は24セステルティウスで取引されていました。これは、熟練した労働者のおよそ1週間分の賃金に相当する金額です。今の感覚に置き換えると、たった300グラムほどの樹脂に、私たちの週給まるごと1回分を支払っていたことになります。フランキンセンスがいかに「特別な」商品だったか、この価格からも伝わってきます。
皇帝ネロが一夜で燃やした「アラビア1年分」の香り
この贅沢品としてのフランキンセンスの価値を象徴するのが、皇帝ネロにまつわるエピソードです。西暦65年、ネロは深く愛した妻ポッパエア・サビナの国葬を執り行いました。その際、大プリニウスの記録によれば、「アラビア全土の年間生産量を上回る量」の香料が、一夜にして葬儀の炎の中で灰と化したとされています。
一国の年間生産量をたった一晩で燃やし尽くすという行為は、単なる哀悼の表現を超えて、絶対的な権力と富を誇示するパフォーマンスでもありました。フランキンセンスは、祈りを天に届ける神聖な香りであると同時に、権力者がその力を見せつけるための「究極の消費財」でもあったのです。
2019年、現代に見つかった「新種」の乳香
何千年もの歴史を持つフランキンセンスですが、実はその物語はまだ完全には終わっていません。2019年、植物学者たちによってひとつの新種が正式に記載されました。その名は「Boswellia occulta(ボスウェリア・オクルタ)」。ラテン語で「隠された」を意味するこの学名の通り、実はこの木は何世代にもわたってソマリランドの採取者たちの間で「モホル」という名前で親しまれ、既存の種と同一のものとして市場に流通していました。
ところが化学分析の結果、この木から採れる精油は、通常のフランキンセンスとはまったく異なる成分構成を持つことが判明したのです。一般的なフランキンセンス精油は、香りの主役として様々なテルペン類という成分が中心となっているのに対し、Boswellia occultaの精油は「メトキシアルカン類」という珍しい成分が過半数を占めるという、非常に特異な組成を持っていました。
これは、私たちが「フランキンセンス」とひとくくりに呼んでいるものの中に、まだ科学的に解明されていない多様性が眠っている可能性を示す発見でした。何千年も人類とともにあった植物にすら、まだ「知られざる一面」が残っている。そう考えると、フランキンセンスという香りへの見方が、少し変わってくるのではないでしょうか。
香りの向こうにある物語
ディフューザーからふわりと立ちのぼるフランキンセンスの香り。その一滴の向こうには、ローマ帝国の財政を揺るがし、皇帝が権力を誇示するために燃やし、そして現代の科学者たちが今なお新しい発見を続けている、壮大な物語が広がっています。次にフランキンセンスを香らせるときは、そんな悠久の物語にも、少しだけ思いを馳せてみてください。
フランキンセンスの植物としての特徴や、香りの成分、アロマテラピーでの具体的な使い方については、「植物としてのフランキンセンス徹底ガイド」で詳しく解説していますので、あわせてご覧ください。

